2022出版物

2022/05/25

国鉄型普通電車が走る 日本の鉄道風景

主要幹線等、全国の国鉄路線で電化が推進されていったのは昭和30年代以降のこと。それまで機関車が牽引する客車や気動車で運転していた旅客列車は、電車に置き換えられた。架線が張り巡らされた線路上を走るそれらの車両は、動力近代化が叫ばれる下で誕生した近郊型電車や通勤型電車が主力だった。直流、交流と地域による電化方式の違いはあったが、多くの電車は似通った外観や車内設備を備え、国鉄型と括って称するに相応しい一体感があった。
一方、昭和時代以前に創業した民鉄に端を発する国鉄買収路線等では、第二次世界大戦前より、都市圏の輸送に活躍した旧型国電が活躍していた。武骨ないで立ちの電車は長い年月を経て、沿線の日常風景に馴染んだ存在となっていた。しかし、ほとんどの車両は新たに設計された一モーター車へ、昭和末期までに置き換えられた。そして、旧型国電に替わって登場した電車も、異なる形式ではあるものの、基本仕様が共通な車体を載せた国鉄型であった。
国鉄の分割民営化から30年余りの時を経て、これらの国鉄型電車は多くの路線で過去の存在となりつつある。民営化以降、各地で新たな地域色に塗装を変更した車両も多かった。
また、一部の路線では従来の優等列車用車両が、運用の都合や特急、急行の廃止で格下げされ、普通列車に充当された例があった。
それでも全国に浸透した同様なかたちの電車は、日本国有鉄道を偲ばせる象徴の一つであろう。その形状と色彩は、国鉄時代の情景として深く記憶に刻まれている。湘南色、スカ色、ウグイス色等、都市部で親しまれた塗装の多くは、現在の主力であるJR世代の電車に、ステンレス車体に巻かれた帯等となって引き継がれている。

2022/05/25

EF58 最後に輝いた記録

国鉄蒸気機関車が終焉を迎えた1975年当時、筆者は「ポスト蒸気機関車」として新たな被写体を模索しており、国鉄特急列車やブルートレインが有力候補だった。その被写体の一つとして浮上したのがEF58に代表される国鉄旧型電気機関車で、ことに東海道・山陽・東北の三大幹線で活躍するEF58は、ポスト蒸気機関車の絶好の被写体として注目を浴びることとなった。
1975年から1980年初頭にかけて、東海道筋の根府川、函南、金谷、関ケ原など、景勝地を走る美しきゴハチのフォルムを追い求める日々を過ごした。あれから半世紀近い歳月が流れ、カラーポジフィルムの退色等を考慮して、EF58が有終の美を魅せた1970年代の作品を写真集として上梓する最後のチャンスだと認識した。
自身のアーカイブスとして保存してきた伝説の「コダック・コダクロームIIフィルム(KII)」で撮影したEF58の名場面を厳選して、カラーグラフを構成した。モノクログラフには、ハッセルブラド+ゾナーレンズによるゴハチ作品に加えて、青大将の「つばめ・はと」や20系ブルートレインを牽引する全盛時代も、筆者の諸先輩の作品をお借りして構成することができた。

2022/05/24

国鉄優等列車列伝 第4巻 「とき」「佐渡」 上野~新潟を駆け抜けた優等列車の記録

このシリーズ第4巻の本書では、上野~新潟を結ぶ優等列車を特集する。第1章で上野(東京)~新潟間列車の変遷史について上越線開業前の明治・官民並立期に、碓氷峠をアプト鉄道で越えていた頃から、JR化後の寝台特急「北陸」、急行「能登」廃止の2010年まで、年表や時刻表、編成図も交えて時系列で解説する。そして、第2章では上越線全線を走破する優等列車のうち、上野(東京)~新潟間列車を中心に写真で活躍の跡を振り返る構成とした。
本書により、難攻不落だった急峻な谷川連峰を抜ける鉄道建設に挑み、さらには「耐雪」から「克雪」への努力を重ねた先人たちの苦闘の跡や、新幹線開業前のバラエティー豊かな列車群の活躍ぶりに、昔年の鉄道への想いを馳せていただければと思う。

2022/04/26

昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く 第16巻 北陸の電車たち(2) 石川県の私鉄

北陸3県(富山県、石川県、福井県)には県内の鉄道網を束ねるそれぞれの鉄道が存在しました。それらは最初、独立した鉄道として生まれ、戦時中の国策で電力会社との関係の強かった福井県以外はほぼ1県1社の組織に統合されました。面白いのは富山県と石川県ではそれぞれ県名を冠していますが、石川県だけは石川鉄道にならず「北陸鉄道」というこの地方の総称を会社名に採用しました。この結果、北陸といえばまず金沢、次に富山、福井の名前が自然に出てきます。しかしここでも「石川」という県名は忘れられた感じがします。
北陸3県にも多くの私鉄が存在しましたし、今も元気な鉄道会社も少なくありませんが、本書ではこれを3回に分けてご紹介します。その第1回に北陸鉄道を取り上げることにしました。北陸鉄道は戦時中の鉄道統制令で石川県の多くの中小私鉄が金沢電気軌道のもとにほぼ統合され、戦時中北陸鉄道(第1次)となり、これが現在の北陸鉄道の母体となります。そして終戦後の昭和20年10月に浅野川電気鉄道が合併して、北陸鉄道が完成します。
しかし、北陸鉄道を構成する路線の多くはぜい弱な体質と、昭和30年代に始まったマイカーブームや道路整備により輸送手段は自動車に移っていき、多くの路線が廃止に追い込まれてしまいます。現在でも残るのは不採算区間をそぎ落とした石川線と浅野川線だけになりました。この2線の走る地域は金沢市の通勤圏に含まれ、通勤路線として活路を見出しています。
そのほか北陸鉄道小松線と同じ国鉄北陸本線小松駅から出ていた尾小屋鉄道もご紹介いたします。

2022/04/25

発掘写真で訪ねる 荒川区・足立区古地図散歩~明治・大正・昭和の街角~

江戸四宿で最大の繁華を誇った千住宿は千住北組・中組・南組で構成されていました。千住中組と千住南組の間を隅田川が流れており、明治に入って隅田川以北は南足立郡となり、以南は北豊島郡に属したことから、後に千住北組、中組は足立区となり、千住南組は荒川区に入った歴史があります。
近代に入ってから荒川、足立の両区は千住宿を構成していた千住南組改め南千住と、千住北組及び中組の通称北千住区域がその発展を牽引してゆきましたが、その後の歩みは両極端とも言えます。
明治初期から大正~昭和にわたって南千住をリーダー役として工業都市化が始まった荒川区は、王子や上野と近接していたことからほぼ全域にわたって市街地化が進展。荒川区は、面積では東京23区で22番目という狭い区域でありながら、昭和15年には東京都区部で最高の35万人という人口を数えたほどでした。一方の足立区は、東京でも有数のターミナル駅となった北千住周辺以外は一面に田畑が広がる農村地帯でした。その市街地化は昭和40年代以降であり、鉄道空白地帯はさらに遅れて平成に入ってからのことです。日暮里・舎人ライナー沿線やつくばエクスプレス沿線がその好例に挙げられます。
荒川区は戦後の「モノづくりの街」から脱却。住宅都市へと転換して現代の都市風景を象徴するのは、南千住だけとも言えます。明治期から昭和期の戦前戦後にわたって物流の一大拠点だった隅田川駅用地が再開発エリアとなっています。
両区の明治期以降の歩みを、本書の古地図での時空散歩でお楽しみください。

2022/03/22

想い出の国鉄・JRアルバム 第4巻 東京近郊区間(東京西部・神奈川編) 1960年代~80年代の記録

著者の長渡朗氏は昭和27年に国鉄入職後、静岡機関区にて蒸気機関車の庫内手を経て電気機関車の機関助手に。昭和36年以降は静岡運転所・三鷹電車区所属の電車運転士としてさまざまな列車を運転した元国鉄マン。本書では主に昭和40年代~50年代の東京近郊区間を走る列車写真を、見開き中心の大きなサイズでカラー掲載。全盛時代の電車、客車列車、貨物列車やディーゼルカーが多数登場します。

2022/03/19

信越本線 1960年代~2000年代の記録 ~碓氷峠越えと名峰を背に~

昭和30年代後半、国鉄では電化、ディ-ゼル化など動力近代化が進んでおり、蒸気機関車は昭和50年までに消えゆく運命にあった。著者たちはパシフィックの名機C57、C54、C55、あるいはC59、C62などの大型蒸機など消えゆく蒸気の撮影の旅を行っていた。
信越本線は東京と信越・北陸地方を結ぶ重要な路線であるものの、ネックは横川~軽井沢間に横たわる国鉄最急勾配66.7パーミルのアプト式運転による碓氷峠越えであった。昭和34(1959)年8月には輸送力の増強、保守に必要な多大な経費削減などによりアプト式を廃止、粘着運転の新線の敷設が決定、昭和36(1961)年4月より工事が開始された。ED42によるアプト式運転が見られなくなるのを惜しみ、蒸機撮影の傍ら峠の防人ED42の撮影のため横軽間に何度も足を運んだ。横川の「峠の釜めし」で腹ごしらえをして、丸山信号場、碓氷湖、めがね橋(第三碓氷橋)へ、熊ノ平では「峠の力餅」をほおばりながら撮影を楽しんだ日々であった。
ED42の撮影を終えた翌日は信濃追分付近で浅間山を背に走るD50、D51、の蒸機列車キハ57系「志賀」などの急行、キハ80系特急「白鳥」の撮影を行うのが常であった。特に夕闇迫まる頃にD51重連が浅間山を背に力行する様は今も著者の脳裏に強く残っている。
北陸新幹線開通で現在信越本線は3分割され、「本線」とは名ばかりの寂しい路線になったが後を引き継いだしなの鉄道、えちごトキめき鉄道が美しい信越の風景の中を走り続けている。

2022/03/15

ふるさと東京 今昔散歩 特別編 モダン・トウキョウの街と空

いまは、明治から数えて5番目の元号の令和の時代です。明治維新(1868年)から1世紀半近くが経過し、これから過去を回顧する書籍や展覧会の企画が次々と出てくると思います。2022(令和4)年の初春、東京・押上の郵政博物館で開催される展覧会「モダン・トウキョウの街と空~絵葉書で旅する東京。ロストからネオの時代へ~」では、その流れの中で新たな提案をしたいと考えました。それは「モダン」という言葉の新しい見方です。63年間続いた昭和の前半が「昭和モダン」なら、その後はどうなるのか。少なくとも、戦後の昭和はどんな言葉(定義)がふさわしいかということです。それをもとに『ふるさと東京今昔東京散歩 特別編』として刊行するのが本書で、シリーズの共著者である坂崎幸之助さんの特別協力をいただきました。
「モダン」という言葉が最も似合う街が東京(トウキョウ)であることに異議を唱える方は少ないでしょう。モダン・トウキョウは、昭和初期を表わす代表的なテーマにもなっています。これをヒントにして、モダンからロスト・モダン、そしてネオ・モダンという、時間の推移を考えるのはどうでしょうか。日中戦争から太平洋戦争へと続いた時代はロスト・モダン、そして戦後の復興期をへて東京、日本が甦った時代(昭和中期)がネオ・モダンです。本書ではネオ・モダンという新しい時代に焦点を当てながら、モダンやロスト・モダンの時代を含めた、東京の姿をお見せしたいと思います。

2022/03/04

想い出の国鉄・JRアルバム 第3巻 東海道本線(東京~豊橋) 1960年代~80年代の記録

著者の長渡朗氏は昭和27年に国鉄入職後、静岡機関区にて蒸気機関車の庫内手を経て電気機関車の機関助手に。昭和36年以降は静岡運転所所属の電車運転士として東京~大垣間を運転した元国鉄マン。本書では主に昭和40年代~50年代の東京~豊橋間を走る列車写真を、見開き中心の大きなサイズでカラー掲載。EH10牽引をはじめとする全盛時代の貨物列車や湘南電車が多数登場します。

2022/02/28

国鉄優等列車列伝 第3巻 「はつかり」「みちのく」 上野~青森間を駆け抜けた昼行優等列車の記録

「はつかり」は漢字で初雁と書く。国語辞典で引くと「その年の秋はじめて北方から飛んでくるカリ」とある。カリは漢字で雁と書き「ガン」の別名で日本へは秋に来て春に北へ帰る渡り鳥である。いわば北国からの使者で「北国への特急」にふさわしいといえよう。
1958(昭和33)年4月、同年秋運転開始予定の東京-大阪間日帰りビジネス特急の愛称公募が行われ、従来の愛称とはまったく違った愛称として「こだま」が当選したが、「さくら」「はやぶさ」「初雁(はつかり)」「平和」が選外佳作として選ばれ、ここでも「雁」は顔をだしている。特急の愛称になる機会をうかがっていたかのようであり、「こだま」とほぼ同時に登場した東北初の特急の名になったのは当然の流れだっただろう。それからは上野-青森間の北海道連絡特急として、東北新幹線開通後は新幹線接続特急として青函トンネルを抜けて函館まで運転され北国への使者としての使命を果たした。
「みちのく」は1950年11月、それまで列車番号だけだった急行列車に愛称を付けることになり国鉄本社によって命名された愛称のひとつで「列車愛称第一期生」である。「みちのく」は「道の奥」と書き、「陸前」「陸中」「陸奥」三国の総称で東北地方の別名でもあるが、特急のなかった東北地方にとって上野と東北北部を昼行で結ぶ東北の代表列車の名にふさわしいといえよう。「はつかり」登場後はその補助列車的な性格が強くなったが、上野-青森間を常磐線経由で結ぶ昼行客車急行として沿線の都市間連絡、東北各地から北海道への連絡列車として多様な使命があった。
1972年から常磐線経由の昼行客車急行が電車特急に格上げされ「みちのく」を名乗ったが、6往復にまで成長した「はつかり」と比べ「みちのく」は最後まで1往復だった。東北新幹線の愛称名公募でも「みちのく」は最多得票にもかかわらず採用されず、東北の代表列車も晩年は不遇だったことは否めない。本書は「はつかり」「みちのく」の変遷をその前身の上野-青森間優等列車とともに取り上げた。客車、ディーゼル、電車とその変遷を写真で楽しんでいただきたい。

2022/02/22

道北の国鉄・JR 1980年代~90年代の記録

厳しい自然環境の下に息づく北海道の鉄道。夏には草いきれで包まれた原野を進み、厳冬期には吹きすさぶ北風に抗い、流氷が押し寄せる海辺を行く。
特に沿線人口が少ない地域が多い道北地方では、雄大な景色の中を走る単行気動車に出くわす機会が多かった。旭川と稚内を結ぶ宗谷本線を軸として、地方の拠点、寒村にまで張り巡らされていた国鉄路線網。開業当初は一日数往復の運転であっても、それらは地元住民にとって欠かせない交通手段だった。
しかし需要規模の小ささ、自家用車の台頭により、昭和末期に入ると多くの鉄路は不採算路線としてバス転換等、廃止の運命を辿った。国鉄の分割民営化に前後して廃止された路線の中には、線路跡等が草木に埋もれて、遺構が見当たらない場所が少なくない。
本書では鉄道が各地で当初の使命を終え、姿を消そうとしていた時代に、日本国内にあって個性的な風土の横顔を求めて渡道を繰り返し、撮影を敢行していた野沢敬次氏(2021年逝去)の写真で、往時の最果て路線を振り返ってみたい。周遊券を手に訪れた、北の大地の記憶を思い起こしていただけたらと思う。

2022/01/26

発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第5巻 19~22系統

都電の場合は、他都市に比べていろいろな面で山の手と下町の相違が大きく、それが都電の系統による性格の違い、利用客層の違いなどとなって表れていました。庶民性という点では何と言っても下町路線が勝っていて、都電の世界は下町にあったと言っても過言ではありません。山の手でも都電は移動手段の1つとして利用されていましたが、下町では生活の一部にしみ込んだ存在、無くてはならない存在になっていました。これは都電なき後の都営バスが、今なお下町では需要度が高く、山の手とその郊外では大半が廃止された現状を見てもわかります。
本シリーズは系統番号順に巻を追っていますが、系統の付番の基準から、おのずと山の手からスタートし、次第に下町に進む(降ってゆく)構成となっています。この伝で進めて行きますと、この第5巻は純然たる下町を走った系統を紹介する最初の巻ということになります(山の手の路線にも下町路線に相当する例外的な系統番号はありますが)。
この第5巻では山の手から下町への入門編ともいえる1920系統、生粋の下町路線だった㉑㉒系統を取り上げました。都電が走った時代の東京をぜひお楽しみください。

2022/01/25

京成電鉄、新京成電鉄、北総鉄道の写真記録 【下巻】1980年代~現在の記録

成田の新空港は開業したものの、「スカイライナー」の利用客は、大荷物を持ってのバス連絡が嫌われて低迷していた。加えて、通勤輸送についても、平行する国鉄総武線の複々線化・総武快速線の開業、営団(現・東京メトロ)地下鉄東西線の津田沼乗り入れにより、京成船橋駅での乗客逸走が顕著になり、鉄道事業が欠損となる事態を迎えた。さらに空港建設反対運動による度重なる成田空港の開港延期により、空港線への投資は会社経営上の大きな負担となり、流通や不動産など関連事業の不振も加わって、京成電鉄は創業以来の“経営危機”に陥った。このため抜本的な経営再建策が執られた。その結果、業績は次第に回復し、黒字化、復配、民営鉄道協会への復帰などが進んだ。下巻では1980年代から現在までの歴史と車両の変遷をたどる。

2022/01/25

昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く 第1巻 時刻表から消えた北海道の私鉄

第4回配本となる今回は、『時刻表から消えた北海道の私鉄』というタイトルにしました。北海道の鉄道撮影旅行といえば国鉄・JR各線の撮影ポイントが現在も多くの愛好者を引き付けています。しかし、それらの撮影は写真のセンスがある方々にお任せし、本書の著者である私自身は後年なくなりそうになった急行「ニセコ」を追いかけたくらいです。常紋も狩勝峠も目的地を便利に結んでくれた夜行列車の車内におり、常に夜の通過だったのです。
ほかに北海道の鉄道といえば炭鉱鉄道の存在があります。取り上げたいテーマではありますが、本号では『交通公社の時刻表』にあった私鉄に限定し、炭鉱鉄道はこのシリーズの別の機会にしました。ただ夕張鉄道や雄別鉄道など炭鉱鉄道そのものではありますが、蒸気機関車牽引の旅客列車も走っており、また時刻表にも掲載されているので本号で取り上げていきます。また令和の時代まで生き残った釧路臨港鉄道は石炭輸送専用の鉄道ですが、かつて旅客運輸を行っていた時期があるので、この期間を私鉄として紹介し、その後の変化は炭鉱鉄道の巻で紹介いたします。